広瀬斜子織の再現を目指して
「斜子おり 広瀬の 浪のあやなるを 誰川越の 名に流しけむ」
当時の埼玉県令(県知事) 白根多助が当地で詠んだ(明治 10 年・ 1877 年)和歌が“広瀬斜子”の商標にされています。
「川越斜子」の名で江戸へ搬出されていたことを惜しみ、広瀬(現在の埼玉県狭山市)こそが斜子織の本場だと称えたのです。
生産者たちは、清水宗徳の提唱で「広瀬組」を結成し、商標をつくるなど品質の維持・改良に努め、生産に励んだということです。
斜子織は絹織物で、羽織・袴・帯として当時の庶民にも愛用されました。特に“広瀬斜子織”は品質が良く、シカゴで開催の世界博覧会に出品したものが「名誉賞」を受賞(明治26 年・ 1893 年)、宮内省のご用品にもなるなど高く評価されていました。
明治35 年( 1902 年)には生産がピークとなり、10 万 4000 反を製造したということです。
しかし、大正期に入り、斜子織は衰退していきました。現在ではその存在は市民の中でもあまり知られておらず、歴史の中に消えてしまったかのようです。蚕の生産も途絶え、糸引きもおこなわれず、織る人もいなくなってしまいました。
狭山遊糸会では
広瀬斜子織再現を目指して、狭山遊糸会では、織り機が残っていないか、市内の旧家などを訪ねましたが、2・30年遅すぎるというお話が多く、処分されてしまったようでした。
そんな中、狭山市立博物館の収蔵庫で古い機(はた)に巡り会うことができ、広瀬公民館に活動拠点を置かせてもらうことになりました。
織り機の修理をしてどうにか動くようになり、1600 本の糸を通すための糸綜絖(いとそうこう)も作りました。
2016 年後半になって、絹織物を織れるところまでやっとこぎつけましたが、当時の名品“広瀬斜子”にはほど遠いのが現状です。
当時の糸に近いものを入手できるようになったので、試織を重ねて再現の完成度を上げていくのが今後の課題です。
再現のための作業をしていると、当時の人々の技術、智慧と努力はやはり素晴らしい!と感服します。
ふるさとに先人の残した名品があるのは誇らしいことであり、その高度な技術は途絶えさせてはならないと思います。
地域の皆さんのお力を借りながら、再現を成功させて次の世代にも伝えていけたらと考えています。
織りに関心を持って頂けるように、広瀬斜子サロンや手織り体験講座も実施しています。
この活動にご興味のある方の入会をお待ちしています。
2021年 1 月狭山遊糸会
↑狭山市立博物館にあった機
広瀬公民館に運び込まれた機