資料:養蚕信仰
養蚕は農家の重要な現金収入でした。「お蚕さま」と呼び、蚕を病気や害虫から守り良い繭を作らせるため、人間の生活より優先し細心の注意を払い飼育しました。蚕室には養蚕守護のお札を貼って祈り、感謝しました。
狭山市内には当時の信仰を示す文化財が残っています。その中から主な文化財をご紹介します。(ページ最下部に動画があります)
①笹井白鬚神社境内 蚕神神社 所在地 笹井1962付近
<白鬚神社>
由緒については定かでないが、古くから笹井村の氏神として崇敬されてきた。
文明18年(1486)に聖護院第29世がこちらに参拝したとの記録があるので、それ以前から鎮守していたと思われる。
祭神は、猿田彦命(さるたひこのみこと)と武内宿禰(たけのうちのすくね)である。
昭和20年5月25日の夜から26日の未明にかけて、東京方面に向かうB29爆撃機の内の
1機が迷って笹井地区にやって来て、黒須地区と笹井地区に焼夷弾5000発が投下された。笹井ダムからこの一帯が火の海となり、焼失家屋や罹災者が多数、死者13人、被災世帯69戸に達した。幸いに本殿は無事で、本殿前の奏上門の破風を焦がしただけで類焼を免れた。
*笹井豊年足踊り
この足踊りは、笹井囃子の演目の一つで、幕末から明治初期にかけて当地の桜井藤太郎が苦を重ねて創作したものである。
元旦祭や春・秋の祭礼のほか、宗源寺のお釈迦様花まつり、七夕まつり等で上演される。
豊年足踊りは狭山市指定文化財である。
<蚕神神社>(こしんじんじゃ)
蚕影神社(こかげじんじゃ)のことで、笹井地区の養蚕の守り神である。
おしら様(蚕の守り神)である茨城県の蚕影山大権現は、毎月23日が縁日である。水富地区では、毎年お参りに行っている人もいた。
1月15日には、繭玉をコナラの木に刺すが、おしら様には桑の木株に繭玉の団子より大きな団子を16個刺した。(写真下左:白髭神社 下右:境内社 蚕神神社)
②広瀬浅間神社境内 養蚕神社 所在地 上広瀬983-2
<広瀬浅間神社>
万延元年(1860)に安産、鎮火、養蚕業の発展を祈願して、上広瀬・下広瀬の富士講(ふじこう)により創建された。
河岸段丘を利用して造られた富士塚で、頂上には「富士浅間宮」(ふじせんげんぐう)と刻まれた石碑が建てられている。鳥居のある登り口から入ると、1合目から丁石が模してある。
祭神は、木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)などである。
<養蚕神社>
慶応2年(1866)9月に建立された。
入口の鳥居から登り、2合目を上がった辺りの左手に養蚕神社がある。この神社の前で火祭りの日に「おたきあげ」がおこなわれる。
*火祭り‥毎年8月21日行われている。
富士吉田市に鎮座する富士浅間神社北宮の鎮火祭を模倣したしたもので、「おたきあげ」と称して木の枝を円柱状に束ねた護摩木(ごまき)を燃やす。
2か所のうちの1か所が養蚕神社前である。大きいお焚き上げは、4合目を上がった庚申堂前の広場で、養蚕神社前はやや小ぶりのお焚き上げである。
護摩木の材料は桑の木で、養蚕が盛んだった頃はどこにでもあり容易に手に入ったが、最近は手に入れるのに一苦労し、ほかの地域から取り寄せているそうだ。
火祭りは狭山市指定文化財である。(写真下左:広瀬浅間神社 下右:境内社 養蚕神社)
③養蚕神社(広瀬) 所在地 広瀬東2-39 第八区自治会館近く
明治のころ、清水宗徳が参拝を身近にするため、広瀬神社から分祀(ぶんし)したと伝えられているが、詳細は不明である。
④諏訪神社 所在地 入間川4丁目4484-3
古老の言い伝えによると、信濃の国の諏訪大社を400年前頃に勧請(かんじょう)したものといわれている。創建については諸説あるが、天正10年(1582)に甲斐の武田氏が滅亡した時、多くの家臣が入間川流域に移住して帰農したといわれているので、この可能性がある。
祭神は、武御名方命(たけみなかたのみこと)である。
*お諏訪さまの「ナスとっかえ」と「茄子神輿」
毎年8月の終わり頃、「ナスとっかえ」の祭事が行われる。
自分の畑でとれた茄子を神社に奉納し、神前に供えてある別の茄子をいただいて家に持ち帰るという、ちょっと変わったお祭りである。この茄子を食べると一年中元気に過ごせるという。子供たちは茄子の形をした神輿を担いで上諏訪地区を練り歩く。
この祭事は狭山市指定文化財である。
これには、次のような言い伝えがある。
昔、諏訪神社の裏手の底なし沼に竜神が棲んでいた。ある朝、村びとたちが朝の畑仕事を終えて通りかかると、突然竜が現れ暴れたのでみんな逃げ帰った。すると、村人が投げ入れた茄子によって竜神の夏病が癒え、竜はそれからは諏訪大神(すわおおかみ)にお仕えすることなったというおはなしである。
‥養蚕信仰として‥
諏訪神社の御使い神である竜神は「蛇」に通じ、蛇は蚕の天敵であるネズミを退治することから養蚕の豊作祈願としても人々の拠り所となっていた。
諏訪神社の御札は、竜神に捧げる茄子の特効と共に野ねずみ除けに大変効果があるとされていたので、御札へのお礼として養蚕農家によって格子戸に繭が付けられていた。
⑤愛宕神社(峰)境内 蚕影神社 所在地 狭山1884-1
〈愛宕神社〉
伝承によると、江戸時代初期に当地を知行していた小笠原太郎左衛門安勝が、守護神として勧請(かんじょう)したといわれている。小笠原家は、沢村、田中村、峯村一帯を知行しており、天岑寺に代々の墓地がある。 *(峯村・田中村は現在の「狭山」地区)
本殿は宝暦7年(1757)に小笠原太郎左衛門廣芬(ひろよし)が寄進したものである。棟の部分に宝暦7年の年号があり、本殿の裏にはこの神社を建てたと思われる「荻野萬次郎」という人物名がある。
覆い殿(おおいでん)の中の右隣には八坂神社が祀られている。入間川八幡神社の例大祭(天王さま・獅子舞)には、どちらにも奉納される。
〈蚕影神社〉
創建については不明である。
茨城県筑波山ろく(現茨城県つくば市)にある蚕影神社(こかげじんじゃ)を勧請したと推察され、幕末から明治にかけて養蚕が盛んだった頃に創建されたと思われる。
祭神は、稚産霊神(わかむすびのかみ)、埴山姫命(はにやまひめのみこと)、木花咲耶姫命(このはなさくやひめんのみこと)である。
蚕の神である「おしらさま」はネズミ退治をしてくれるということで、荒神様(こうじんま)と共に信仰された。峯、田中や、加佐志、東三ツ木方面の養蚕農家も大勢参拝したという。(下左写真:左側、蚕影神社 右側、愛宕神社 下右写真:境内社 蚕影神社
⑥三柱神社 所在地 祇園13付近
地元では「市場の荒神様(こうじんさま)」と呼ばれている。それは、市場の大野家が所有していたことからであるが、養蚕が盛んな時代は蚕神(かいこがみ)として近郷近在に知られており、5月1日の縁日には養蚕農家の参拝で大変な賑わいを見せたという。
古老の話では、延享年間(1744~48)に加藤清正の末裔と称する加藤太郎左衛門が三宝荒神を合祀(ごうし)したと伝えられており、地元では「荒神様」として親しまれてきた。
祭神は天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高皇産霊神(たかみむすひのかみ)、神皇産霊神(かみむすひのかみ)である。
御神体は砂岩自然石であり、男性器をかたどった生産神の象徴である。これは、古い神社信仰の原形である。
明治時代から昭和30年代頃にかけて養蚕が盛んだった頃は信者が多く、5月1日の例大祭には約5千枚の「開運火防(かいうんひぶせ)」、「養蚕ネズミ札」という御札が配られ、養蚕に必要な道具を売る市が立った。
拓植(つげ)の枝に白と黄色の団子4・5個を刺したものが売られた。繭の豊作を願い、病気に効く縁起物として多くの人に買い求められたという。
*狭山市内の養蚕農家の間では、蚕室で炭火を使う関係から、火の神であり竈(かまど)の神である「荒神様」を火防せ(ひぶせ)として、また、蚕の神である「おしらさま」はネズミ退治をしてくれるということで信仰された。
⑦梅宮神社境内 蚕影神社 所在地 奥富508番地の2
〈梅宮神社〉
広瀬神社と並んで市内で最も古い神社である。創建は古く、承和(じょうわ)5年(838)といわれ、京都右京区の桂川沿いに鎮座する梅宮(うめのみや)大社から分祀したものである。
祭神は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)、大山祇(おおやまずみのかみ)、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)である。
酒造、安産、林業、農業、交通守護にご利益ありといわれている。
*甘酒祭り 毎年2月10日・11日
この祭りは、「頭屋制」(とうやせい)という関東地方では他に見られない珍しい運営形態で、
1200年前の平安の昔からそのまま継承して執り行われるところから、埼玉県指定文化財・無形民俗文化財に指定されている。
頭屋制とは、氏子を数組の頭屋に分け、そのうちの一組が一年を通してすべての祭礼を取り仕切ることで、甘酒祭の二日目に頭屋が引き継がれる。
そのほか狭山市指定文化財として、「桃園三傑図」や亀田鵬斎筆の「神号」、応永33年(1426)銘の「鰐口」(わにぐち)がある。
〈蚕影神社〉
本殿北側の境内 向かって右から2番目
祭神は大宣都比売神(おおげつひめのかみ)である。
毎年3月の初午の日に祭礼が行われる。昔は、参拝者に白と黄色の団子がくばられた。
白い繭と黄色の繭を表す。黄色い繭とは「黄石丸(こうせきまる)」のことである。(下左写真:梅宮神社 下右:境内社 蚕影神社)
⑧神明宮 石祠 所在地 奥富環境センター付近(上奥富 神明)
〈神明宮〉
中央に「神明宮」とあり、右側に「寛政十(1798)戊午十一月吉日」、左側に「市川氏」との銘がある。
小さな石祠だが、「お神明様(おしんめいさま)」・蚕神として知られ、石祠の前にある蛇を描いた絵馬を借りてきて蚕室に置いておくと、ネズミの被害にあわないといわれていた。蚕が終わると借りてきていた絵馬と共に新しい絵馬を供えてお礼参りをする。繭がたくさんとれた時は、繭を糸でからげて神様にお供えしたという。
また、竹筒の中に酒を入れて持っていき、アオダイショウがきてネズミを退治して蚕を守ってくれるように頼んだそうだ。
現在、絵馬(ヘビではない)が置かれてしめ縄飾りがされている。
⑨亀井神社境内 蚕神の石祠 所在地 下奥富1465番地
〈亀井神社〉
もとは、産土神(うぶすながみ)白鬚神社といった。創立は一条天皇、寛弘3年(1006)と伝えられている。当初は広福寺が管理していたが、明治の神仏分離令後、広福寺より分離した。
その後いくつかの経過を経てから亀井地区の管理にかえ、明治18年に亀井神社と改称された。
主祭神は、猿田彦命(さるたひこのみこと)である。
〈蚕神(かいこがみ)〉 家屋形の石祠
中央には「蚕影山大権現」(こかげさんだいごんげん)と刻まれ、右側に「文政十三(1830)庚寅(かのえとら)歳 四月吉祥日」とあり、左側には「願主 講中」とある。この「講中」とは、養蚕信仰の「おしら講」と思われる。(下左写真:亀井神社 下右:境内 蚕神の石祠)
⑩東三ツ木の薬師堂境内 馬鳴菩薩の石仏 所在地 東三ツ木8
〈薬師堂〉
本尊の薬師如来は、14世紀に当地を開いた金子国重の守護仏といわれている。
薬師三尊像(薬師如来・月光菩薩・月光菩薩)と薬師如来の眷属(けんぞく)である十二神将は、狭山市指定文化財である。
<馬鳴菩薩(めんみょうぼさつ)> 石仏
正面中央には「馬鳴大菩薩」と刻まれているのだが、崩れてしまいほとんど判読できな
い。正面右に「文化五(1808)戊辰(つちのえたつ)二月吉日」、正面左に「三ツ木村 講中」との銘がある。ここでの講中とは、「おしら講」と思われる。
馬鳴菩薩は中国の民間信仰に由来しており、貧しい人々に衣服を恵む仏といわれる。
わが国では、蚕神(かいこがみ)と呼ばれており、養蚕や機織りの神として祀られている。(写真下左:薬師堂 下右:境内 馬鳴菩薩の石仏)
⑪常楽寺境内 蚕生大権現の石祠 所在地 柏原2298番地
〈常楽寺〉
妙法山常楽寺といい、宗派は天台宗である。本尊は不動明王坐像。
本堂内には、地蔵菩薩、観世音菩薩など30体以上の仏像が安置されている。
隣接する墓地には、常楽寺を興したと推定される増田家の墓地がある。
増田家初代・増田大水正金(ますだたいすいまさかね)は応永年間(1394~1428)に大和の国から柏原に移住した鍛冶師である。鍛冶師としてその後4代、約125年程度続いたと考
えられている。
初代が鍛えた槍の穂先は狭山市指定文化財(工芸)である。
〈蚕生大権現〉 石祠
正面中央に「蚕生大権現」、右側に「文政四(1821)辛巳(かのとみ)四月吉日」、左側に「講中」との銘がある。
「蚕生」という銘はどこからきているのか。狭山市史(民族編)によると、古事記の中の五穀起源の条からの引用で、「頭に蚕生り(かしらにかいこなり)」からとったものではないかと書かれている。講中とは「おしら講」と思われる。(写真下左:常楽寺 下右:境内 蚕生大権現の石祠)